【インタビュー】「空港に音を録りに行きます」砂原良徳さんが語る空港&飛行機愛とは?

更新日:2023年9月21日

【インタビュー】「空港に音を録りに行きます」砂原良徳さんが語る空港&飛行機愛とは?

高橋幸宏(2023年1月11日逝去)を中心に、錚々たるミュージシャンたちが集まったMETAFIVEの活動が、実質的に不可能になり、そのメンバーである砂原良徳とLEO今井に、白根賢一と永井聖一が加わって新しく結成し、ファースト・アルバム『1STST』をリリースしたTESTSET。

1991年に電気グルーヴに加入してキャリアをスタート、1999年の脱退後はソロ・アーティスト/トラックメーカー/プロデューサー/マスタリング・エンジニア等として、揺るぎないポジションを築いている砂原良徳が、今、新たにバンドを結成して活動し始めたこと自体が、音楽シーンにとって、事件だと思う。そして、そのファースト・アルバムが、ファン以外にも広く開かれたポップ・ミュージックになっていることも、かなり、事件だと思う。

電気グルーヴ在籍時にスタートし、脱退後も継続しているソロの初期の作品が「飛行機三部作」と呼ばれているほど、航空関係に造詣が深い砂原良徳に、現在の活動について、また「飛行機と自分」について、みっちり話していただいたのが、以下のテキストです!

キャリア30年/年齢50歳を超えて新バンドを始動させた理由

──このキャリアで、新しいバンドを組んで、ライブもやるし、今日のように自分が矢面に立って取材等も受ける、というのは・・・。

(笑)。はい。

──「何年ぶりだろう、そんな活動」という感じだと思うんですが。今、どんな気分ですか?

いや、どんな気分も何も……逆に言うと、僕らぐらいのキャリアになってくると、みんなもう固まってきて、「ひととおりのことはやったからいいや」っていう感じだと思うんですけど。でも、家でスマホ見たり、NETFLIX観たりして、ゴロゴロしてんのもねえ。もう50代だけど、身体は動くし、多少まだ無理もできるから、やれるうちにやろう、っていう感じもあるし。

あと、ライブはやっぱり……CDが売れなくなったからライブが増えた、って言う人もいるけど、そんな単純なことでもないような気がするんですよね。経験とか体験に対する人々の意識が変わってきていて、その価値をもう一度自分の中で再認識するようになっているのではないかな、という気がして。自分もちょっとそういう感じがあるし。

だから、音源を作って、「はい、これでいいでしょ」っていうんじゃなくて。音源を作るのは、あくまでも、ライブをするための武器作りみたいなもので、大事なのはその武器を持ってどうするかっていう話だよね、っていうふうに、考えるようになったので。

──昔はライブは苦手、好きじゃない、って、こういうインタビューとかではっきり言うぐらいの方でしたよね。

はい。レコーディングは、好きは好きなんですよね。それも好きだし、それでもいいんだけど、なんかレコーディングされた音源の価値っていうものがちょっと、人々の中でだいぶ下がったっていうんですかね。サブスクの登場とか、そういうのも関係あるのかもしれないけど、気軽なものになったっていうか。それはちょっとあるのかもしれないですね。でも、作ってる方としては、じゃあ手ぇ抜いてやっていい、っていうわけにもいかないし。作ってる方は大変ですよ、だから。

──で、1stアルバムが出ましたけれども。正直言って、あんなに間口が広くて開かれたものになると予想していなかったので、聴いて驚いたんですが。

うーん、まあ、最初だしね。聴きたい人だけ聴いてくれればいいよ、っていうものを作る方がラクなんですけど、やっぱり、せっかくやるんだったら……せっかく寝ないでミックスして、せっかく寝ないで映像編集して、せっかくいっぱい練習してライブやるんだったら、やっぱり、ある程度、関係ない人まで巻き込まないと、おもしろくなっていかないんですよ。

関係ない人を巻き込んで、それを受けて自分たちがどういうふうに変化するか、っていうのもあるし。「こういう人たちが来るだろうな」っていうお客さんに観てもらって、それを受けて自分たちがどう変化するか、っていうのは、ある程度想像がつくけども、関係ない人を巻き込んでいくことによって、想像がつかない部分が、ずいぶん出てくるので。その部分を楽しむ、っていうのがライブにはあるのかな。

「飛行機三部作」を作った理由

──はい。では、飛行機の話の方ですが……まず、飛行機に乗るのが好きになったのは・・・。

いや、飛行機は好きだけど、乗るのは好きじゃないです。

── (笑)。そうなんですね。では、作品のモチーフにするほど興味を持ったきっかけは? 電気グルーヴ在籍時に始めたソロ活動の初期の頃に、「飛行機三部作」と呼ばれる作品を出しておられますが。

空港って、人をいっぱい乗せて、遠くまで行って、っていうことが、1日にものすごい数、行われてるじゃないですか。昔はインターナショナル・エアポートとか、独特の雰囲気があったりして。ちょっとリアリティがない、っていうのかな。病院の中とか、空港の中とか、役所の中とか、なんか変な雰囲気ってあるじゃないですか? そういう感じも好きだったし。

滑走路に、見たことのないデザインのいろんな飛行機がいっぱい停まっているのとか、「すげえな。なんだ? この感じ」って興奮してた。

あとは、時刻表がグワーッていっぱいあって、いろんなところに行く飛行機が……今ここにいる人たちが、数時間後にはバラバラのところに散らばっていたりする感じとか。そういうのも、非常に不思議な感じで、興味があったというか。
だから、それをモチーフに音楽を作った、という感じですね、当時のソロは。

「新宿の地下にある空港から、飛行機が離陸してどこかへ行く」がコンセプト

──最初のソロアルバムは『CROSSOVER』(1995年)ですが・・。

あ、あれは飛行機は関係ないんですけど。その次に12インチオンリーで出した『TOKYO UNDERGROUND AIRPORT』と、セカンドアルバム『TAKE OFF AND LANDING』と、サードアルバム『THE SOUND OF 70’s』(いずれも1998年リリース)の3枚ですね、三部作は。

最初の『TOKYO UNDERGROUND AIRPORT』というのは、『TAKE OFF AND LANDING』の予告編として作ったんですけど。『TAKE OFF AND LANDING』は、ちょっとSFタッチなストーリーがあって。未来の話で、新宿の地下に空港を作って、そこから飛行機が離陸してどこかへ行く、というストーリーで。その空港の開港記念の粗品が、『TOKYO UNDERGROUND AIRPORT』っていうレコード、っていう。

それで……この当時流行ってたラウンジ・ミュージックで、空港っぽいデザインをモチーフにするようなものって、けっこうたくさんあったんですよ。国内にも、海外にも。ただ、その中で、本当の航空会社とタイアップしたのは、自分だけだと思います(笑)。

──ああ、確かに。当時、「CMで曲が使われていたりするわけでもないし、これはどういうことなんだろう?」って不思議に思った記憶があります。

みんな、架空の航空会社的なものをデザインして、モチーフにして使ったりしていたんですけど。それを本当の会社でやると、現実なのか、架空のものなのか、わかんなくなるじゃないですか? その感じを出したくて。僕、嘘なのか、本当なのか、っていうギリギリのところが好きなんですよね。

『TOKYO UNDERGROUND AIRPORT』も……東京の地下の空港の開港記念レコードで、その空港に乗り入れる航空会社が書いてあるんですけど。ちゃんと実際の航空会社に連絡して、許可を得ているんです。

── (笑)。すごい!

だから、実際の航空会社のマークが16社、並んでいる。それは、まず僕がコンセプトシートと、CDとしての企画書を作って、スタッフふたりが、それを持って各社を回って。で、今言ったコンセプトを説明して……そうすると、「こいつ、頭おかしいんじゃねえの?」って、門前払いされそうじゃないですか(笑)。実際、門前払いもされたんですけど、「それはおもしろそうだ」って、ロゴを貸してくれたのが、あの16社なんです。

JALも貸してくれたんですけど、俺は、JALの鶴のマークを使いたいって言ったんです。でもこの時、JALは鶴のマークじゃなくなっていて、ダメだったんですけど、今、鶴のマークに戻ってるんですよね。だから、その先読みは、俺の方ができていた(笑)。

── はははは。確かに。

今でこそ、コラボという言葉があって、そういうふうなことは普通だけど、当時はそんなの全然なかったから。よく貸してくれたと思います。

僕ね、最初は自分で電話してたんです。でも後半、もう音を作らなきゃなんなくなったから、スタッフにバトンタッチしたんですけど。自分で電話した中で、特にカンタス航空の対応がしゃれていて。「こういう架空のストーリーがあって、カンタス航空さんに乗り入れていただけませんか、っていうご相談なんです」という話をしたら、広報の方は、「ああ、いい話ですね、ぜひ乗り入れさせてください」って。分厚い資料を送ってくれた。シャレがわかる

──で、サードの『THE SOUND OF 70’s』は、その中からパンナムをモチーフにして・・・。

はい。パンナムのスチュワーデスさんで、高橋文子さんという方がいて。本も何冊か出している方なんですけど、その方と知り合って。高橋マリ子ちゃんってモデルさん、いるじゃないですか。彼女のお母さんなんです。

──あ、そうなんですか!

その方と知り合いになって。パンナムのOBとOGが集まるパーティーが毎年あって、呼ばれて何回も行きましたよ。スピーチさせられるんですけど。でねえ、昔スチュワーデスだったおばあちゃんが、涙を流して俺に握手してくるんですよ。「ああ、これは、アルバム作ってよかったなあ」って、そこで初めて思いました。
だから今も、YouTubeとかで、当時のパンナムのCMで、スチュワーデスが歩いてるのを観ると、「あ、この人、知ってる」っていうのがけっこうありますね。

──機体そのものへの興味はありますか?

機体にも興味ありますよ。自分がいちばん好きな飛行機は、ボーイング747、『THE SOUND OF 70’s』のジャケットの飛行機ですね。もともとは、軍事用に開発された、ロッキードのギャラクシーっていう飛行機があるんですけど。それは米軍に採用されたんですけど、747はギャラクシーと競り合って負けたんですね。

で、パンナムの社長が「それ、旅客機にするつもり、ないか? するんだったらまとめて買うぞ」って手を挙げて、ボーイングに作らせて。JALも二番目か三番目に手を挙げた。だから、初号機に、「ローンチ・カスタマー」って言って、手を挙げた航空会社のマークがズラーッて付いてるんですけど。パンナムがいちばん最初に付いていて、JALは二番目か三番目なんです。
だから、747って、頭が出っ張っていて、口がパカッて開くじゃないですか? あれ、戦車を入れるためなんですよ、もともとは

自分を「空港の空気感」にどっぷり浸からせる

──ここの空港が好き、というのはあります?

ハワイの空港、好きですね。ホノルル空港、なんか独特の雰囲気がある。木が多い感じがするな。あとは、パリのシャルル・ド・ゴール空港、あそこも独特な雰囲気があって。ちょっとレトロ・フューチャー感があるかな。

あとは、みんな一緒ですよね……今って空港、世界のどこに行っても、一緒じゃないですか。ゼネコンがおんなじような作りにして、入ってる店も一緒で。

それはおもしろくないなあと思いますね。それこそ成田空港だって、昔はもうちょっと独特な雰囲気がありましたよね、90年代までは。あ、成田は、よく音を録りに行ってたな。

──ああ、アルバムに使うために?

そうです。音を録りに行ったり、デザインのモチーフになりそうなものを探したり。たとえば、『TOKYO UNDERGROUND AIRPORT』に入っているタイムテーブルとか。空港にあるものの、人にいろいろインフォメーションするための独特なデザインとか、独特なフォーマットって、あるじゃないですか。

何気なく空港を使っていると気づかないことが多いんですけど、ちょっと気にして見てみると、「あ、実はこれ、全部こういうふうになっているのか!」とか、気づいたりして。そういうモチーフを探すために、行ったりしてましたね。

あと、自分をその中にどっぷり浸からせて、もうそのことしか考えられない自分にする、っていう。だから、「飛行機三部作」を作っていた頃は、誰かの音楽を聴いて「こういう曲を作りたい」というのは、ほとんどなくて。空港とかの、音楽以外のところから刺激を得て音楽を作る、っていう感じだったんですね。

──最近は行ってない?

いや、この間も……椎名林檎さんのリミックスをやったじゃないですか?

──ああ、はい、今年1月に出たリミックスアルバムの、「JL005便で〜Flight JL005〜(B747-246 Mix by Yoshinori Sunahara)」。

あれも、空港のザワザワした声を、自分で録りに行きました。羽田の音なんですけどね。「JL005」って、ニューヨークから日本に来る飛行機なんですけども。だから、空港のアナウンス、ニューヨークで誰かに録ってもらおうかなあ、でも今ニューヨークに知り合いいないわ……って、しょうがないから自分で想像で作った音なんです、あのアナウンスは。自分がアナウンスを発注されたらこう作るぞ、っていう。

──なるほど。本日は貴重なお話をありがとうございました!

ありがとうございました。

と、空港関係・飛行機関係に向き合うスタンスが、そのままアーティストとしてのスタンスに直結していることがわかる話をしてくれた、砂原良徳さんでした。あと、電気グルーヴ在籍時の後期、バンドはドイツはじめヨーロッパでの活動が活発化していて、何度もツアーやDJツアーに行っていたので、ドイツ各地の空港も、強く記憶に残っているそうです。

編集:ローチケ旅行編集部
執筆:兵庫慎司
撮影:かくたみほ

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